情報高速消費社会を考える

投資調査第2部 主任研究員 室 剛朗

 2015年に入り、早2ヶ月が過ぎた。気付けばもう年度末である。毎年この頃になると思うことではあるが、なんと時の流れが速いことか。2014年を振り返ってみると、STAP細胞、号泣議員問題、集団的自衛権の行使容認の閣議決定、特定秘密保護法の施行など様々な出来事があった。佐村河内氏の騒動も実は2014年であったとは、非常に驚く。我々の生きる社会はとても忙しくなっていて、体感する時間スピードが高まっている。情報量が過多であるため、一つ一つの情報を吟味することができず、新しい情報に思考が流されていく。ゆっくり考えられるのは出張中の新幹線や飛行機の中くらい。このうえリニア新幹線とは、少しげんなりする。

 このような状況を生み出している大きな要因として、インターネット・SNSの普及が挙げられる。インターネットが生活に浸透して久しいが、次々と出される情報を処理できぬまま、新しい情報が押し寄せてくる。それを実感している人は多いだろう。博報堂調べによると1日あたりのインターネット使用時間は平均219分(全国10~60代男女を対象)、東京新聞によると女子高生のスマートフォン使用時間は一日平均7時間。我々は一体どの程度の情報を目にしているのであろうか。筆者個人としても、情報を素早く取得・整理することを生業としている側面があるが、情報を本当の意味での知識に深化させることができず、ただ消費することにストレスを感じることも多々ある。社会全体を見ても、現代人は情報の波に疲れ果ててしまっている様に見えるし、それから逃れるために一種の思考停止状態を作ることで、自己防衛しているようにも見える。本来、情報とは手段であるべきであるが、その情報に振り回され、追い越されてしまった姿とも言える。

 インターネットサイトのニュースやSNSは自分が欲する情報をスピーディーに取得するにはとても便利なツールであり、新聞を何紙か読む、本屋や図書館に行くなど以前は情報を取得するために当たり前のことであった行為が、非効率な行為と見なされている節もある。しかし、一見無駄である自分の興味・関心から外れている情報に触れることにより、新たな観点や多様な思考が生まれるように感じる。最近は、極端な二元論を用いた議論がネットを中心にされているが、これは(多様性を求められながら)多様性を持ちにくい時代であることを象徴しているのではないだろうか。

 我々は多量に流れ込んでくる玉石混淆の情報に圧倒され、思考停止状態を作り出し、ひたすら情報を消費することに終始する。思考の幅を狭められているため、時には問題の所在すら把握できずにいることもある。インターネットのみならず、新聞やテレビ等のメディアにおいても新たな情報を消費するため、古い話題を避けるようになる。そんな環境に置かれる現代人にとっては、かの大震災のことですら関心が薄れかけていると言われるのは、ある意味当然なのかもしれない。被災地へ訪れる人が減少していると聞くし、定期的に訪ねる筆者も肌でそれを感じる。ただ被災地の仮設住宅には2014年11月時点で、まだ9万人弱の方が入居しているのだ。長引く仮設住宅生活で孤立化・孤独死などの問題は日々発生しているし、福島県の原発問題は収束(アンダーコントロール)どころか本質的な進展を見せているようには思えない。まだ終わっていないことは沢山ある。そのようなことに関心を失うことは本当に恐ろしいことだと思う。また、現代社会は情報を高速で消費することを要請し、様々な出来事を忘れさせ、有機的に関連づける作業の放棄を強いる故に、個々の問題に当事者意識を持つことを妨げる。このことは先の総選挙における低投票率であったり、安易な自己責任論がまかり通る現状と無縁ではあるまい。

 政治・経済・宗教をはじめとする世界の動きは、かつてないほど不確実性を増している。このような時代、一歩先を見通すために本当に必要なことは「忘れる」技術ではなく、「忘れず反省を活かす」技術ではないだろうか。昔は当たり前であった必須技術が、今求められている気がしてならない。時代の要請に逆らうことは容易ではないが、情報を高速消費している自分を少し休ませて、多くの問題に当事者意識を持って事柄の本質に当たることにこそ時間を使う。そこで得られる考えこそが、一寸先が見えない状況において、進む道を照らす大切なライトになるのではないか。