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シンガポール:エスカレーターに見る「シンガポールらしさ」の褪色

2017年02月07日

 海外市場調査部 副主任研究員 安田 明宏

 「シンガポールへ発つ、となる時に感ずる一種の開放感がある。それは何といっても、チャンギ空港へ着くことからきている。この世界第一級の大空港は、クリーンで能率よく爽快感にみちている。(中略)今回もチャンギ空港に降りると、パスポート・コントロールもまことに手際よく、荷物の受け取りのところへくると、すでにスーツケースが出はじめている。こんなに万事が手早くはかどる空港は他にない。(中略)しかし、数日滞在して別の都市へ移るとなると、果して何が残るのだろうか。いつもまったく心残すことなく能率よいこの空港からまた飛び立つことができる。街に思いを残すという感情は少しも無い。そこには実のところ、何か空漠としたとらえどころのない儚さがある。」(青木保『逆光のオリエンタリズム』1998年、岩波書店、p.106-107)


 20年近く前に書かれたものであるが、チャンギ国際空港の効率のよさは今も同じだ。英航空調査会社のSkyTraxが発表したWorld Best Airport 2016では4年連続で1位となった。チャンギ国際空港は、シンガポールが重視する「高成長」「効率性」「未来志向」が体現され、世界中の人びとがそれを実感できる場所である。


 MRT(地下鉄)駅のエスカレーターの速さも同じであろう。シンガポールに到着した初日は、エスカレーターの乗り降りに緊張感が走る。ちょっとしたイニシエーション(通過儀礼)といったところであろうか。日本でも高速エスカレーターが導入されている駅が見られるものの、シンガポールのMRT駅のエスカレーターは、例外なく速い。慣れてくると速いエスカレーターに爽快さを感じる。そして、日本に戻ると、シンガポールのエスカレーターの速さに再度気づかされる。


 近い将来、このエスカレーターの速度が遅くなるかもしれない。2016年8月7日付のThe Straits Timesは、LAT(Land Transport Authority、陸上交通庁)とMRTを運営するSMRT(SMRT Corporation)がMRT駅のエスカレーターの速度を落とす計画を進めていると伝えた。安全のため、オフピーク時に減速する予定で、2015年7月からテスト運用を行っているという。記事の中では、エスカレーターの乗降で身の危険を感じる高齢者のコメントが紹介されている。


 MRT駅のエスカレーターの速度が遅くなるのは、時代の流れであろう。オフピーク時に速度を落とすのは、少子高齢化が進行する中での「合理的」な判断である。ただ、「高成長」「効率性」「未来志向」を重視するシンガポールでエスカレーターの速度が遅くなるというのは、どこかしら「シンガポールらしさ」が失われるように感じる。


 シンガポールらしさには、2015年3月に逝去したリー・クアンユー元首相の強力なリーダーシップによる経済発展が重なり合う。「政府が推し進めてきたのは、『平民』社会の実現であった」(同、p.112)が、これはすでに達成された。今は、少子高齢化の中、平民社会を「維持」しなければならない時代に入っている。「高成長」「効率性」「未来志向」という目標に向かってまっしぐらに進めばよいというわけにもいかなくなった。今後は、「低成長」「ゆとり」「現状維持」といった、リー・クアンユー時代に見られなかった要素を受け入れていかざるを得ないのであろう。地域統括拠点、フィンテック、IoTなど、次世代を担う産業は揃いつつあるものの、シンガポールにおける低成長時代のイメージはまだ固まっていない。


 リー・クアンユー時代の達成が維持される場所として、チャンギ国際空港は今後も効率のよい空港であり続けるだろう。そして、効率のよい空港としてあり続けるほど、街中で生まれる新しいシンガポールらしさと乖離していくことになるだろう。MRT駅のエスカレーターは、ピーク時は現在の速度が維持されるという。これも合理的な判断であるが、リー・クアンユー時代へのノスタルジアと考えるのは穿ちすぎた見方であろうか。



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