TCFD:「物理リスク」定量的な開示を巡る新たな動き

私募投資顧問部 主任研究員   菊地 暁

 気候変動は経済リスクとして認識されており、投資家は企業に対しTCFD提言に基づく気候変動の財務的影響を示すように求めている。そのため、企業は気候変動のリスク・機会を認識し、財務的影響を測りつつ経営戦略に織り込んでいく必要がある。特に不動産は長期のサイクルで事業が行われることが多く、立地が固定されているため、気候変動に伴う自然災害の影響を認識し、財務的影響を捉えておく必要がある。このような背景から、国土交通省では、不動産分野に特化し、不動産会社・不動産運用会社等がTCFD提言に沿った情報開示がスムーズに行えるように「不動産分野における『気候関連財務情報開示タスクフォースの提言』対応のためのガイダンス(不動産分野TCFD対応ガイダンス)」(2021.3.30)を発行した。

 この気候変動を巡る社会動向の変化には、低炭素社会への移行と、気候変動の物理的影響の側面があり、企業の気候変動リスクは、「移行リスク1」と「物理リスク2」の大きく2種類に分けられる。「移行リスク」については、環境関連法令の厳格化や、カーボンプライシング(CP)の本格導入を想定した定量的な開示がみられる。一方で「物理リスク」については、推計方法自体はシンプルであるにもかかわらず、定量的な開示は極めて限定的である。「物理リスク」の推計方法としては、対象物件をハザードマップにプロットして高リスク地点を特定し、過去の修繕事例・対策コスト等をもとに、水害発生時の財務的影響を個別に算定・集計する方法が考えられる。しかし、国土交通省が公表する「ハザードマップポータルサイト」は、対象エリア・河川の充実が日々図られているが、未だ途上である。また、各行政区のハザードマップをもとに詳細を把握しようにも、市区町村によってはHP上に掲載されたPDFデータしか提供されていないなど、検討に必要な資料に課題がある。対象物件数が大量な場合には、非常に面倒な確認作業となるだろう。仮に対象物件の浸水深を把握しても、シナリオ分析を行うには、降雨発生確率や浸水深被害率などの客観的に妥当な数値の設定が必要である。このような状況から、ESGのトップランナーであるJ-REITや大手不動産会社の開示情報をみても物理リスクの影響はその多くが定性的な開示に留まっている。

 しかし、一部企業では外部専門機関やコンサルティング会社にデータ分析を委託しながら「物理リスク」の財務的影響を把握しようという試みがみられる。例えば、三井住友トラスト・ホールディングス「TCFDレポート2022/2023」(2022.12.29)では、物理リスクについては、MS&ADインターリスク総研と協働し、不動産投資法人(REIT)(同社子会社である三井住友信託銀行の貸出残高8,409億円)を対象とした分析を行っている。具体的には、①個別物件の位置情報をもとに、将来の降水量変化などに基づく河川洪水および高潮による被害の発生確率と浸水深を計測し、さらに、②この計測をもとに、国土交通省「治水経済調査マニュアル(案)」を用いて浸水深ごとの建物物的損害率(直接的影響)、業務停止期間(間接的影響)をシミュレーションしている。期待損害率(発生確率×損害率)を2100年まで推計し、その結果、2040年以降に洪水よりも高潮による被害の期待損害率が急激に高まるとの分析結果を示した。そのうえで、信用格付の低下を通じて発生する与信関係費用への影響は軽微であると結論付け、今後の課題にも言及している。このような物理リスクの定量的な開示は先進事例として注目に値する。同社では、被災時のデジタル技術を活用したシミュレーションなどの試みも始まっており、分析の高度化が期待される。

 また、物理リスクの認証制度にも動きがみられる。「不動産分野におけるレジリエンス検討委員会3」は自然災害に対する不動産のレジリエンスを定量的に評価する認証制度として「ResReal」を開発し、運用を開始する。この認証制度は、不動産に関わるステークホルダーのレジリエンス向上を図る指針になるものとして期待される。そのほか、(公社)日本不動産鑑定士協会連合会では、「自然災害リスク等に関する鑑定評価検討有識者委員会」を立ち上げ、自然災害の価格形成要因への影響について検討を開始した。このように、物理リスクに関する定量的な開示を取り巻く環境は徐々にではあるが整いつつある。

 不動産にとって気候変動に伴う「物理リスク」があることは疑う余地がない。投資家は、将来の物理リスクの財務的影響の程度、およびその対策を知りたがっている。不動産会社・不動産運用会社等は、「物理リスクが存在する」という課題認識に留まらず、シナリオ分析に基づく具体的な期待損害額を推計し、ステークホルダーに対して自社経営のレジリエント(強靭性)を示すことが重要となる。


  1. ^移行リスク:低炭素社会への移行に伴い、温室効果ガス排出量の大きい金融資産の再評価によってもたらされるリスク
  2. ^物理リスク:洪水、暴風雨等の気象現象によってもたらされる財物損壊等の直接リスク、およびグローバルサプライチェーンの分断や資源枯渇等の間接リスク
  3. ^D-ism(Development of integrated scoring for maximizing property resilience)プロジェクトメンバーにより発足した委員会。メンバーは、株式会社イー・アール・エス、株式会社建設技術研究所、CSRデザイン環境投資顧問株式会社、一般財団法人日本不動産研究所、野村不動産投資顧問株式会社ほか。
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