中国:地下鉄駅の醤油、あるいは商業施設の変容

海外市場調査部 副主任研究員   安田 明宏

 東南アジア方面への出張から戻る途中、上海に立ち寄った。浦東国際空港から市内に向かうタクシーの中から外を見ると、大気汚染の影響であろう、遠くが霞んで見えた。筆者が上海で暮らしていた頃(2006年から2011年)よりもひどくなっているような気がする。

 新規オフィスビルの供給状況を確かめるため、上海を代表するオフィスエリアの陸家嘴に向かった。地下鉄2号線の陸家嘴駅の改札を出たところで、ふと足がとまった。自動販売機の中に醤油が並んでいる。「地下鉄」と「醤油」と「自動販売機」の関連性が即座には思い浮かばない。上海で働く人は共働きで忙しい人が多く(しかもここは国内外の金融機関が集積する陸家嘴だ)、仕事帰りにスーパーに立ち寄って醤油を買う時間すらない、だから地下鉄駅で醤油が販売されているのか・・・・・・と勝手に想像していたが、自動販売機に書かれている説明を読んで合点した。これは自動販売機ではなく、自動販売機型のサンプリングマシンである。スマートフォンのSNSアプリ「微信(WeChat)」を通じてパスワードを受け取り、それをマシンに入力すれば、中にあるサンプルを受け取ることができる仕組みとなっている。

 マーケティングをするうえで、サンプルを実際に利用してもらうことは重要である。一方、中国の消費動向において、SNSが大きな影響力をもっていることから、それを利用したマーケティングが重要視されている(日本国内で中国人観光客が「爆買い」するときにも、SNSは重要な情報ツールのひとつになっている)。サンプリングマシンだと、ただ単にサンプルを渡すだけでなく、SNSを通じてサンプルを受け取った人びととつながり、情報を広めることができる。筆者のように事情がわからないと、このコンビネーションは驚きをもって迎えられることになる。

 筆者の驚きの背景には、醤油のサンプルは小売店で配布されるべきという固定観念があった。スマートフォンとSNSという場所を選ばないツールが発達、普及したことで、サンプルを配布する場所は、小売店を飛び出したのである。公共交通機関の駅やターミナルは、多くの人びとに商品を幅広くアピールするにはうってつけの場所である。サンプリングマシンだと人的コストはかからないし、SNSを通じてアンケートも簡単にできる。消費者から見ると、サンプルが配布される場所はどこでもよく、意外性やエンターテイメント性が重要なのかもしれない。小売店にとって、サンプリングマシンは新たな集客方法として利用できるが、配布するサンプルは小売店が取り扱う商品と関連する必要はない。実際に配布するモノと場所は遊離し、自由に組み合わせることができるようになった、ということである。

 すでに中国では、インターネットショッピングが実店舗での売上を奪い、商業施設における「店舗スペースの提供」のあり方に変容をもたらした。例えば、「その場にいかないと消費できない」モノやサービス(飲食店やアミューズメント施設、教育サービスや美容サービス関連など)を提供するテナントの募集が重要視されるようになった。もうひとつの重要な役割である「集客」においては、スマートフォンとSNSがそのあり方に変容をもたらしつつある。新しい商品やサービスに関するイベントの開催や有力アンカーテナントの誘致は集客の常套手段であるが、スマートフォンとSNSを戦略的かつ効果的に使わなければ、消費者が商業施設に向かわなくなる。醤油が置かれるのは、小売店でも地下鉄駅でもどちらでもよいのである。商業施設の集客力が落ちれば、賃料や資産価値に影響が出る可能性がある。一方、競争力のなくなった商業施設にとっては、ITを意識した戦略が起死回生のチャンスとなるかもしれない。

 上海の有名な商業エリアである淮海路を歩いた。地下鉄1号線の陜西南路駅から黄陂南路駅に向かう途中、昔ながらの熟食店(惣菜屋)が数件あった。そのうちのひとつは人気店らしく、付近で暮らしていると思われる年長者が列をなして順番を待っていた。今も昔も変わらないスタイルで営業を続け、時代の変化とは無縁の世界のように感じられる。ここはITの進化と無縁なのかもしれない、そう思いながら行列の横を通りすぎたあと、ふと思った。もしかしたら、ここに並んでいる人びとは、SNSの情報を見て並んでいるのかもしれないし、最近流行しはじめたお使い依頼アプリ「隣趣(Linqu)」で誰かに雇われて並んでいるのかもしれない、と。

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