韓国:近い距離、遠い言語、中途半端なもどかしさ

海外市場調査部 主任研究員   安田 明宏

「わたしたちは、自動車旅行をつづけながら、ときどき、道標をみるために車をとめる。道標の地名がローマ字でかいてあれば問題はない。それが、デーヴァナーガリー文字だけでかいてあることがある。(中略)あれにであうと、わたしたちは目のまえで窓がびしゃりとしめられた、という印象をうけるのである。まさに、とりつく島なし、というところだ。あのなかでは、インド人の、ゆたかな精神生活がおこなわれているのだろうが、わたしたちはなにごともしりえないのである。」(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観ほか』2002年、中央公論新社、p.36。初出は1956年2月)

 2018年12月にソウルを訪れる機会を得た。記録を見ると、ソウルを訪れるのは2016年8月以来である。すでにソウルは本格的な冬の到来に向けて準備万端であった。最低気温はすでにマイナスで、到着した翌日には雪も降った。冬の到来を感じ始めた東京からやってきた筆者にとっては、ソウルはすでに東京の真冬であった。一足先に寒さを感じつつ、訪れる先を東南アジアにすればよかったかと後悔した。いや、2017年12月に北京からジャカルタまで飛んだが、真冬の格好でスカルノ・ハッタ国際空港に降り立ったときの不快感よりかはましか・・・。

 それにしてもソウルは近い。東京からソウルまでの飛行時間はおよそ2時間半である。東京から大阪まで新幹線で行くのと同じぐらいの時間である。本を読んで、うとうとしているうちに到着する。新幹線だと乗り過ごす恐れがあるが、飛行機だとその心配はない。おまけに、日本と韓国は時差がないので、時計の針を戻す必要もない。海を隔てているとはいえ、韓国には距離的な親近感があるのだ。もし、西日本で暮らしているなら、韓国はもっと身近な存在なのかもしれない。

 しかし、筆者にとって、韓国は心理的に遠い。原因はわかっている。韓国語がわからないからである。ソウルの街を歩くと、観光客向けに英語や日本語で書かれた情報が多く見られる。少なくとも地下鉄の案内には英語が併記されている。英語や日本語を話す韓国人も多く、たいへん助けられた。もっとも、このような場所は限られていて、多くは韓国語のみの世界である。ハングルで書かれたものは意味不明の記号にしか見えない。オフィスビルのテナント案内板を見ても、どういった業種のどういった企業が入居しているのかさっぱりわからない。レストランのメニューを見ても、どれが肉でどれが魚でどれがスープでどれが飲み物なのかさっぱりわからない。マークがなければ、トイレがどこにあるのかわからない。

 年に数回、筆者は、東アジア、東南アジアの国・地域を訪れる。今後も訪れる可能性が低い(と思われる)モンゴル、北朝鮮、ブルネイ、東ティモールを除いた国・地域では、プライベートの旅行を含め、マカオとラオス以外はすでに訪れたことがある(マカオは香港の目と鼻の先なので、次回香港を訪れるときに足を伸ばしてみようと思う)。筆者のこれまでの東アジア、東南アジアとの関わり方で大きく左右されるところではあるが、物理的距離と心理的距離(=言語的に何とかなるかならないか)を私的にまとめてみると、次のようになる。

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 中国本土については、実際に暮らしていたことがあるので、(あまり上手とはいえないが)中国語は多少理解できる。香港は広東語の世界であるが、(これも大したレベルではないが)英語が使えれば基本的に不自由することはない。最近は、中国語もよく聞かれる。台湾やマカオも中国語が多少なりとも理解できれば何とかなるだろう。少なくとも、日本人は漢字が理解できるので、字面を追って理解することもできなくはない。シンガポールは英語が使えれば問題ないし、中国語ができればプラスアルファとなる。インドネシアは、かつて留学していたことがあり、大学院時代の研究対象でもあったことから、(恐ろしく錆びついているが)インドネシア語を感覚的に理解できることがある。マレーシアは英語が使えるが、マレー語はインドネシア語に近い部分もあり、たまに理解できることがある。フィリピンのタガログ語はまったく解せないが、多少でも英語が使えれば何とかなる国である。筆者にとって、これらの国・地域は心理的に近く、物理的な距離はあまり問題とならない。

 筆者が言語的に何ともならないのは、タイ(タイ語)、ベトナム(ベトナム語)、ラオス(ラオ語)、カンボジア(クメール語)、ミャンマー(ビルマ語)である。言葉が理解できないので心理的距離は遠く、加えて距離的にも日本から遠い(少なくとも韓国のようにぱっと行けるような国ではない)。不思議なことに、言葉が通じない心理的距離は距離の遠さで昇華され、何ともならないことに対して違和感はない。通じない言語は遠い場所にあり、遠い場所では言葉が通じないもの、そういうイメージが筆者の中にある。二重に遠いので諦めがつく(本当は諦めてはいけないのだが)。

 問題は、韓国だけ、近いわりに何ともならないのである。「ゆたかな精神生活」に触れるだけの言語的能力がないにも関わらず、距離が近い分、諦めきれない。別言すれば、物理的な距離の近さが「文字記号のちがいのもたらす絶望感のふかさ」(同、p.37)を逆に際立たせているように感じる。韓国に対する筆者の個人的なもどかしさがここにある。心理的距離で韓国を切り捨てようとも、物理的な距離の近さがそれを許さない。筆者が韓国の不動産市場に関するレポートを書き終えると、内容的に問題はなくても、どこかしら、地に足がついていない感覚があるのはこのせいかもしれない。

 筆者の知人に朝鮮族の中国人がいる。彼女は中国語、韓国語(朝鮮語)をネイティブレベルで話し、日本企業でじゅうぶん通用するレベルの日本語も話す。おそらく、彼女にとって、東アジアの各国・地域に対する心理的な距離は近く、上記の表でいうと、モンゴル以外すべて左上のマスに入るのだろう。今後、筆者が彼女のようになれるとは思えない。しかし、何とか左下にある韓国を左上に近づける方法はないだろうか。最近、翻訳機の性能が上がっているというが、筆者の助けにはなるだろうか。いや、道具に頼ってはいけない。別に誰かと約束をするわけではないが、次回、韓国を訪れるときまでに、ハングルの読み方ぐらいは覚えていこう。

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